だから何だというのだ

何かにつけて「だから何なのか」と思えるかどうかが、知性の正体なのではないかと思う。私はこの力がとても弱く、言葉の雰囲気にすぐ流されてしまう。最近も、ビル・ゲイツに関するある記事を読んでいた時にそれを感じた。記事中には、彼が“本物のプログラミングをしていない”と感じた相手に言い放った言葉が載っている。内容は以下の通り。

「てめーらセグメントチューニングに時間かけすぎだろ。セグメントチューンなんて12歳のガキにだってできらぁ。もっと本物の最適化をやれ。こんな馬鹿馬鹿しいセグメントチューニングじゃなくてよ。おれは飛行機の中でFAT書いたこともあるんだぞ、アホンダラ」

強い言葉だなと思う。私が直接言われたわけでもないのに、圧倒的な成功者のこのような発言を見ると、自分の人生は何とぼんやりしたものだったのだろうと反省してしまう。

しかし、記事の中で紹介されているコメントの内容は「飛行機の中で書いたから何だっていうんだ。なんにも変わらんだろ」である。これだ。この力が自分にはない。飛行機の中で、といった無意味な言葉にめっぽう弱い。いわゆる批判的思考力が不足しているのだと思うが、批判的思考というと、相手の主張の誤りを見抜く能力だとか、嘘に騙されない能力を想像してしまう。そうではない。ただ「だから何なのか」と思うことが難しく、その態度を取れるかどうかが知性的な人との大きな違いだと感じる。

「子供部屋おじさん」もいい例だ。私はすぐに風潮に流されてしまう。自分なりに考えた結果、実家住みは良くないと判断するのであれば問題ないのだが、ただ扇動的な言葉のパワーによって実家住みはダサいと思ってしまう。「だから何だというのか」と思えないことで知らず知らずのうちに選択肢が消えていく。