どうかくだらないことにハマり続けてください

某有名人の配信を見ていた。彼は、視聴者からの相談に次から次へと答えていく。「統合失調症で何をしていても楽しくない」とのスパチャに「楽しくないのは楽しいことをしていないから」と答えていた。そして、今日は自分が何を楽しんでいたか、口早に話し始める。飛行機失踪事件のwikipediaを読み、関係者に不審な人物がいることが分かり、今度はその人に興味が移って……といった内容を、5,6分の間、本当に楽しそうに話していた。私はその相談者ではないのに、それを聞いていて少し気持ちが軽くなった。ここには何か重要なものがある。

精神系の病で憂鬱な状態の人に対して、よくなされるアドバイスといえば「散歩をするといい」「睡眠時間を整えるといい」「一定時間集中して取り組めることをするといい」といったもの。まあ、実行すればある程度は効くのだろう。でも、そう助言されたからといって前向きな気持ちになれる人は少ない。話しているその人自身が、散歩なり何なりをそれほど楽しんでいるようには、まず見えない。いかに楽しいか、一人で5,6分も語りだす助言者はそういない。

では、何かを楽しんでいる姿が、人を明るい気持ちにするのか?それも少し違う気がする。人によると思うが、スポーツやギャンブルを楽しんでいる人を見ても、あまり気持ちに変化は起こらない。重要なのは、たぶん好奇心だ。好奇心の強い人を見ていると安心する。よく分からないwikipediaの記事を読んだり、どこかの社長が17LIVEで7000万円投げ銭をしたと聞いてすぐに17LIVEを見に行ってその異文化感を享受したり、そんな所に面白さがあったのかと感じられる遊び方をしている人を見ると、この世界は面白い場所なのかもしれないと思える。ポジティブさやユーモアセンスは風味付けでしかない。誰かの好奇心こそが私を安心させる。

正気と神聖さの両立は難しい社会のようです

人間の脳は、神聖な価値について考えているとき、費用対効果を分析する部位の活動が減少する。その結果、自爆テロのような行動におよぶ人が発生する。

『悪意の科学』にそのようなことが書かれていた。この本では更に踏み込んで、孤独な人間が凶行に走りがちな理由も説明している。単に失う物がないから、無敵だから、彼らは犯罪を行うのではない。どうやら人間の脳は、社会的疎外を感じると、神聖でない価値に対しても、神聖な価値に対するのと似た反応を示すようになるらしい。それによってコスパ度外視の行動が促される。「自分には失う物がない」という計算さえ、彼らは行っていない。

私はこれを読んで、「クリエイターが結婚すると作品がつまらなくなる」俗説を思い出した。誰が言い出したのか不明だし、反例も見つけることができる。だが、孤独でなくなった人間は物事を神聖化する能力を失ってしまうのだとすると、作品に宿る迫力が孤独と共に失われてしまった例も、ただの偶然や気のせいではないのかもしれない。

休日にショッピングモールにいる家族連れの一人が、実は刺激的な作品を生み出すクリエイターなのだと想像することは、その人がスパイや殺し屋だと想像するよりも難しい。私は、多くの日本人と同じように、何の宗教も信じていない。平凡な生活の中に神聖なものは一つもない。だから、孤独と神性が結びついてしまっているのだろうか。

天才屋さん

人はなぜ天才に惹かれるのか?それは、天才の高貴な姿の中に自分自身を没することで、自分自身の本質を純粋な形で理解できるから。

『天才』というタイトルの本にそんなことが書かれていた。歴史上の様々な天才について研究していた昔の学者が出した本で、あまり読みやすくはなかったが、我々が天才に感じる魅力の正体が、上手く言語化されていると思った。

天才に自分を投影するのは、気持ちがいい。どうして気持ちいいのかなんて、深く考えたことはない。単に「全能感を得られる」以上の理由はないと思っていた。でも、そうすることで「自分自身の本質を純粋な形で理解できる」と言われると、まさにそれだと思えてくる。天才の登場するコンテンツを楽しんでいる時、自分の能力が拡張される感覚ではなく、むしろ余計なものが削ぎ落とされる感覚をおぼえる。自分の中の思い込みが取り払われていき、これまで勝手に視界から消していた可能性が、また見えるようになる感覚。私は今まで何をしていたのか。

人気作品は大半が天才を描いているし、人気者はどこかで天才性を示している。エンターテイメントはつまるところ天才像を供給する産業で、それは単なる現実逃避の道具ではなく、人々が現実をシンプルに捉え直すために必要なものなのだろう。

だから何だというのだ

何かにつけて「だから何なのか」と思えるかどうかが、知性の正体なのではないかと思う。私はこの力がとても弱く、言葉の雰囲気にすぐ流されてしまう。最近も、ビル・ゲイツに関するある記事を読んでいた時にそれを感じた。記事中には、彼が“本物のプログラミングをしていない”と感じた相手に言い放った言葉が載っている。内容は以下の通り。

「てめーらセグメントチューニングに時間かけすぎだろ。セグメントチューンなんて12歳のガキにだってできらぁ。もっと本物の最適化をやれ。こんな馬鹿馬鹿しいセグメントチューニングじゃなくてよ。おれは飛行機の中でFAT書いたこともあるんだぞ、アホンダラ」

強い言葉だなと思う。私が直接言われたわけでもないのに、圧倒的な成功者のこのような発言を見ると、自分の人生は何とぼんやりしたものだったのだろうと反省してしまう。

しかし、記事の中で紹介されているコメントの内容は「飛行機の中で書いたから何だっていうんだ。なんにも変わらんだろ」である。これだ。この力が自分にはない。飛行機の中で、といった無意味な言葉にめっぽう弱い。いわゆる批判的思考力が不足しているのだと思うが、批判的思考というと、相手の主張の誤りを見抜く能力だとか、嘘に騙されない能力を想像してしまう。そうではない。ただ「だから何なのか」と思うことが難しく、その態度を取れるかどうかが知性的な人との大きな違いだと感じる。

「子供部屋おじさん」もいい例だ。私はすぐに風潮に流されてしまう。自分なりに考えた結果、実家住みは良くないと判断するのであれば問題ないのだが、ただ扇動的な言葉のパワーによって実家住みはダサいと思ってしまう。「だから何だというのか」と思えないことで知らず知らずのうちに選択肢が消えていく。

異変が見つかったら引き返すこと

『8番出口』の作者のインタビュー記事を読んだ。

作者は日本の地下通路が好きだから、海外の風景素材は使わずに自力であの舞台を作り上げたらしい。それを読んで初めて、私はあのゲームで日本の地下通路を楽しんでいたのだと気づいた。てっきり自分はシンプルかつ斬新なシステムに惹かれたのだと思い込んでいたけど、同じシステムでも舞台が海外の地下通路ならあまり魅力がない。ゲームルールは日本の地下通路の魅力を引き出すための道具として機能しているに過ぎない。

そのこだわりを守れたことが凄い。創作者のこだわりなんて大半は受け手に伝わらない。言ってしまえば無駄なもの。そんなものは切り捨ててさっさと次のアウトプットに進むのが最近のブームだ。地下通路を日本のものにするか?海外のものにするか?そんなこと誰が気にするの?手っ取り早く用意できる方で作ってしまえ。そう判断してしまいそうなところを、作者は踏みとどまった。必要なこだわりと不要なこだわりを見分けるには、どうすればいいのか。きっとそんなことは考えなくていい。そもそも日本の地下通路でなければ作るモチベーションが出なかったのだろう。異変が見つからなかったら、引き返さなければいい。

会話AIは体を手に入れないと会話AIとして完成しない

話題のおしゃべりAIと会話をした。

本当に人と話すのと同じテンポで会話ができるし、心地の良いリアクションを返してくれる。とても楽しい。最初は。会話を続けていくうちに、会話相手に必要なのは愛想でも知識でもなく、相手の生活なのではないかと思えてきた。

「今日は何をしていたの?」「どんなことが趣味なの?」こんな質問をされると、つい会話の流れで相手にも同じことを聞いてしまう。でも、AIには生活がない。趣味や嗜好もない。一応それっぽい答えが返ってはくるけど、本当は存在しない生活に興味を持つことなどできない。少しずつ気持ちが沈んでいく。

人間との会話でも同じで、本当は興味がないことを訊ねてしまうと、どんどん会話が辛くなる。その「本当は興味がないこと」の範囲が、AI相手だと人間相手よりもずっと広い。AIには生活がないから。今日は何をしていたの?これから何をするの?どうせ適当な回答が生成されるだけなのに、本心から興味を持ってそんな質問ができる人はいない。むしろ人間相手ではタブーとされる思想の話でもしていた方が楽しい。

生活のある者同士でないと、当たり障りのない会話を楽しめない。だから会話AIとして完成するために、AIくんにも生活をして欲しい。体を手に入れて、この社会の中で24時間生きてくれ。そうすれば本当に興味を持って君と話ができる。

こんなに着地点の見えない技術革新が今までにあったかい?

凄まじい性能のAIが生まれて知的労働者が全員失業するならそれでもいいし、限定的な影響に留まるならそれでもいい。でも、どうなるのか判らない状況がいつまでも続くと、環境に適応することさえできない。

何がどこまで可能になるのか、誰も予想を立てられない。専門家の予想は数ヶ月で破られる。これまでの技術革新であれば、少なくともその技術を学ぶことで有意義な努力をしているような安心感を得ることができた。今回はその逃げ道すらない。今現在のAIの扱い方を頑張って習得しても、少し経てば全てがひっくり返り得る。これほど見通しの立たない変革が今までにあっただろうか。インターネットの普及とはわけが違う。

「どうなるのか考えても仕方ないよ」「今できることをやるしかないよ」の“今できること”が何なのか分からない。私は今、何かをやっているのか?何をしても、何もしていなかったのと同じことになるのではないか。ただトランプタワーを組み立てて崩しているだけで「今できることをやれている」と感じられる人はいない。ぼんやりとでも意味のある方向性が見えないと、今できることも何もない。

 

まあ、それでも何かはやっているけど、ぼーっとしているとこういう思考が浮かんでくる昨今。