正気と神聖さの両立は難しい社会のようです

人間の脳は、神聖な価値について考えているとき、費用対効果を分析する部位の活動が減少する。その結果、自爆テロのような行動におよぶ人が発生する。

『悪意の科学』にそのようなことが書かれていた。この本では更に踏み込んで、孤独な人間が凶行に走りがちな理由も説明している。単に失う物がないから、無敵だから、彼らは犯罪を行うのではない。どうやら人間の脳は、社会的疎外を感じると、神聖でない価値に対しても、神聖な価値に対するのと似た反応を示すようになるらしい。それによってコスパ度外視の行動が促される。「自分には失う物がない」という計算さえ、彼らは行っていない。

私はこれを読んで、「クリエイターが結婚すると作品がつまらなくなる」俗説を思い出した。誰が言い出したのか不明だし、反例も見つけることができる。だが、孤独でなくなった人間は物事を神聖化する能力を失ってしまうのだとすると、作品に宿る迫力が孤独と共に失われてしまった例も、ただの偶然や気のせいではないのかもしれない。

休日にショッピングモールにいる家族連れの一人が、実は刺激的な作品を生み出すクリエイターなのだと想像することは、その人がスパイや殺し屋だと想像するよりも難しい。私は、多くの日本人と同じように、何の宗教も信じていない。平凡な生活の中に神聖なものは一つもない。だから、孤独と神性が結びついてしまっているのだろうか。