知ったかぶりの性格以外の原因

①「世界の平均寿命は何歳でしょう?」

 A:50歳 B:60歳 C:70歳

 

②「低所得国の女子の何割が初等教育を修了するでしょう?」

 A:2割 B:4割 C:6割

 

③「世界中でいくらかでも電気が使える人の割合は?」

 A:20% B:50% C:80%

 

ある本の冒頭に、こうした世界に関する知識を問うクイズが12問載っている。大抵の人はこれらのクイズに当てずっぽう以下(33%以下)の正答率しか出せないらしい。ちなみに、上記3問の答えは全てC。

大学教授も、著名な科学者も、投資銀行のエリートも、多国籍企業の役員も、政界のトップも、これらのクイズにチンパンジー以下の正答率しか出せなかったという。どんなに頭が良くても、知識がなければ間違えてしまう。賢ければ知識がなくてもフェルミ推定やら何やらで正解に辿り着けるだなんて、幻想だったということだろうか。

「エリートだってこの程度なんだぜ」と聞いて、それを安心材料にするのは品が良くない。でも、この本を読んで「分からない」と言うことが少し怖くなくなった。知ったかぶりは性格だけの問題ではない。優秀さに対する誤ったイメージが、人を知ったかぶりにさせている。優秀な人間は、基本的な知識に欠けがなく、欠けがあったとしても、チンパンジー以下の判断をすることはない。そんな妄想を抱えていると、分からないことが恥ずかしくなってしまう。

失敗したときの思考回路

ミスをしたときに一番考えてはいけないのは、ヘマをした自分の姿が他人の目にどう映っているか。「もし同じミスを他の人がしていたら私はその人をどう見るだろう」と反射的に考えてしまう、あれ。自分を客観的に眺めるのは悪くないようにも思えるけれど、大抵はそんな場合ではない。客観的にもなれていない。こういった想像をぐるぐる巡らせていると、言い訳をしたくなったり、注意力不足で次の失敗を引き起こしたりする。経験的には一番マシなのは、次に何をすべきかに意識を集中して、とにかくミスの連鎖を防ぐこと。挽回しようと張り切るのも良くない。挽回しようと思っているうちは、まだ失敗した事実を受け入れきれていない。

「ミスの連鎖を防ぐのが重要」「挽回しようとするのは良くない」こういった教訓はあらゆる分野に共通していて、色んな人が色んな場所で言っているけど、私が最初に目にしたのは将棋棋士森内俊之さんの言葉。「一回目のミスはそれほど大きく情勢に影響しない場合も多いのだが、動揺した精神状態で犯す二回目のミスは致命傷となりうる」

将棋であれ囲碁であれ、AI最強時代に人間プレイヤーの価値は一体どこにあるのかと活発に議論されてきた。結局人間は人間のプレイを見るのが好きなのだと、いつもふんわりとまとめられてしまう。でも、本当の価値は「過酷な競争の極地で戦った人間が得たもの」にあるのだと思う。その情報にだけ普遍性がある。AI同士がどれほど見事な棋譜を作り上げても、人間社会に通ずる普遍的なものは何も生まれない。

周囲に無頓着な天才というのはフィクションなのでしょうか

自分で自分のことをくすぐっても、普通はくすぐったいと感じない。ところが、統合失調症の人の一部はそうではないらしい。これは脳の予測機能の違いによるものだと、ある本に書かれていた。

脳は、自分の体を含めた周囲の動きを常に予測している。そして、予測と実際の動きが一致する部分を「これは自分だ」と判断する。統合失調症離人症の人の脳では、この予測機能が正常に働いていない。予測と体の行動が一致しないから、自分の体を自分のものと感じられず、「私は他人に動かされている」などと感じる。

私はこのことを知って、ギフテッドに関するあることを思い出した。グーグルでギフテッドの特徴を調べると、その一つに「社会的・政治的問題に関心を示す」というのが出てくる。私にとってこれは、やや意外な特徴だった。自分の興味に没頭する天才児といったイメージにそぐわない。でも、自分という感覚が脳の予測機能の産物なのだとしたら、優れた予測機能を持つ人にとっての自分は、通常よりも範囲の広いものになる。統合失調症が自分さえも自分と感じられなくなるのとは逆だ。彼らにとって、社会はまさに自分ごとなのだろうか。

人を落ち着かせる力のある媒体はそれゆえに人を熱狂させられません

面白い本を紹介して視聴者の積ん読を増やすというコンセプトのYouTubeチャンネルが面白かった。

映画や漫画やゲームについて話している人よりも、なぜか本を語っている人に惹かれてしまう。他に比べ特に本が好きなわけではない。本の要約チャンネルだとかファストなんちゃらみたいなのにも惹かれない。多分、本について話しているときの落ち着いた雰囲気が好きなのだと思う。本という媒体自体に何かそういう力がある。図書館や本屋は総じて落ち着いた雰囲気をしている。映画館やゲーム屋が落ち着いた雰囲気であることはあまりない。

本が売れなくなる、あるいは電子化されるということは、街から落ち着いた雰囲気の空間が減ることを意味する。それを食い止めようだなんて意志はない。でも不思議だとは思う。本と宗教とアートだけが街の中に落ち着いた場所を作り出す。どうして。近代に生まれたコンテンツには、なぜそういう力が宿らないのか?

実家の太いクリエイターに励まされることは不快ですか

制約は創造の母だという。文字数の決まっている俳句。テーマの決まっているコンペ。X旧Twitter。一定の制限を設けることで、人間の創造性を引き出しているものはたくさんある。

物語を作る際の王道的な枠組みである「起承転結」も、実はそういった側面があるのかもしれない。起承転結に沿った展開が面白いのではなく、一定の形式に従って物語を考えることに意味がある。どうやら、英語圏には起承転結と同じ概念はないらしい。重要なのは起承転結の並びではない。一定のフォーマットがあること。

ところで現実は、物語やポエムと違って、制約を課すまでもなく制約だらけ。お金がない。時間がない。怖くて何かができない。こんな自分には何も出来やしない。そう思ってしまうような状況も、きっと創造の源泉に変えられる。何の慰めにもならない考えだ。「意識高い系になりたくない」という制約をもくぐり抜けて、なお前向きであれるような創造性がほしい。

休日にデパートへ行った時の暗い気持ちは何なんでしょう

どこかの社長が17LIVEで7000万円も投げ銭をしたらしい。その話を聞いたある人が、試しに17LIVEを覗いた感想を話していた。普段自分が見ているインターネットとは大分違う世界で、視聴者にランクがあるだとか、話の内容がほぼ挨拶であるとか、意外と普通のおじさんの配信に人がいるだとか。まあ、いろいろ話していた。

「いつもとは違う体験をしよう」と思うと、ついどこかへ出かけることを考える。旅行やキャンプ、最近だとリアル脱出ゲームとか。こんな風にお金や時間のかかる案しか出てこなくなることを、発想が貧困だと言うのだろう。発想が貧困だと気分は憂鬱になる。普段は絶対に見ないようなサイトを開くだけで新鮮な体験ができることなんて、インターネットを始めたばかりの頃は当たり前に分かっていた。その感覚を思い出すだけで少し楽になる。またどうせXやYouTubeばかり見るのだろう。でもそれは広い世界の一部でしかないという安心感。

他人との比較を本当にやめられたら面接でダメージなんか受けませんよね

就活で内定を沢山とった人が自らの経験を話していた。あの有名な「このボールペンを私に1万円で売ってください」というやつも体験したらしく、すぐにボールペンを分解して中のバネを抜き取った上で返し、面接でボールペンが使えないと困りますよね?1万円で買いませんか?と言ったそう。パフォーマンスとして上手。

よく、面接なんて意味ないよ。面接の評価と入社後の成果は全く関係ないってデータがあるよ。という話を聞く。私もそうであって欲しいと思う一方、自分が苦手だから分かってしまう。まず面接を実施するだけで「面接に行けないような人」を弾く効果がある。そしてやはり、優秀な人間(身近な人でも一方的に知っている誰かでも)が、少し意地悪な質問をされたくらいでまごついている様を想像することが、どうしてもできない。結局そういう人間になりたいと心のどこかで思っている。だからボールペンをどうしていいか分からない程度でダメージを負ってしまう。